さんち 〜工芸と探訪〜

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産地の工芸品

奈良県

吉野・十津川

よしのわし 吉野和紙

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概要

 吉野和紙とは奈良県吉野地方の伝統工芸品で、楮(こうぞ)を原料とした手漉き和紙。吉野川の清流を目の前にし迫った山々の斜面に家々が立ち並ぶ、国栖(くず)、窪垣内(くぼかいと)、が和紙の里である。
 「国栖紙」「宇田紙(宇陀紙)」「吉野紙」などともいわれるが、同じ地方で漉かれた手漉き和紙のことをいい、極寒の頃につくるのが最適といわれている。手漉き和紙の用途は、昔の番傘、障子紙、経書、儀式、漆漉し、油漉し、あらゆる書画用といった日常生活のもののほか、掛け軸などの表装裏打ちや、文化財の修復にも使われる。

吉野川の清流に恵まれる国栖の里で、吉野和紙がつくられる。

吉野川の清流に恵まれる国栖の里で、吉野和紙がつくられる。

原料となる楮の木は、田が少なく斜面の多いこの地域で育てるのに有効であった。

原料となる楮の木は、田が少なく斜面の多いこの地域で育てるのに有効であった。

極寒の季節、冷たい山水で紙を漉くと、引き締まった良い紙になるという。

極寒の季節、冷たい山水で紙を漉くと、引き締まった良い紙になるという。

手漉き和紙が板に貼られて天日干しされる。

手漉き和紙が板に貼られて天日干しされる。

写真:木村正史

歴史

 『日本書記』の記述によると、日本では推古天皇の611年に高句麗の僧である曇徴(どんちょう)から墨づくりの技法と共に紙づくりが伝えられたとされ、その後、聖徳太子により改良が加えられたのち全国に伝播され産地をつくったとのいわれがある。吉野和紙の発祥は、国栖の村人が紀伊国高野山麓の河根村で製法を習い帰ってこれを伝えたという説や、天武天皇が国栖の地にとどまられたときに、耕地が乏しいこの里に良い生業を思案した末、吉野川の清流と気候風土が適しているため紙漉きの業がふさわしいとして里人に習わせたのがはじまりという説が伝えられているが、真実は定かではない。
 和紙は仏教文化の影響を強く受けて発展したもので、天平時代は写経用紙として多く漉かれ、平安時代には写経用紙におびただしい量の紙が必要となり、地方での製紙も行われていたという。
 江戸時代初期、文録検地帳には「楮畑」の記載があり、国栖付近で紙の原料である楮の栽培が多くあったことも確かめられる。また独特の紙質を生み出すために紙漉きに必要な白土が寛永年間(1630〜1644年)に吉野川上郷で採掘されたようだ。手漉き和紙は国栖地方を中心に近傍の村々に及び、山間地での有利な農閑期の余業としての地位を占めるようになった。
 しかし農家の副業として養蚕業と桑の栽植が盛んになるにつれ、和紙づくりは衰退の方向に向かう。また機械製法による洋紙の供給が増大し、和紙の需要を奪ったこともこの理由のひとつである。さらに大正から昭和にかけても和紙づくりは減少。その後、現在に至るまでの間も、廃業、転業(吉野林業の間伐材による割箸製造業へ)によって、漉き屋は逓減の一途をたどってきた。ただこの中で手漉きから機械漉きに移行したものは1軒もないとされており、手漉き和紙の仕事を企業経営としてではなく、生業となる限り職人として伝統を引き継ぎ守りたいという意識がみてとれる。

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