さんち 〜工芸と探訪〜

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「工芸」の起源は鍛冶にあり? 三条を代表する鍛冶職人、日野浦司さんに聞く

投稿日: 2016年11月1日
産地:
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こんにちは、ライターの鈴木伸子です。
わたしはふだん東京にいて、町歩きや建築、鉄道などに関する記事を書いているのですが、今年の夏から秋にかけては何度か新潟県の燕三条に通って、たくさんの鍛冶、金物工場の取材をする体験をしました。

ふだん日常的に使っている金物製品のいかに多くのものがこの街で生産されているか、そして金属加工のたいへんな技術の集積と歴史がこの地域にあることを知って、道具に対する接し方が変わってきたような気がします。
そんな暮らしの道具を作る三条の第一人者である職人、日野浦司さんに鍛冶という仕事についてお話をうかがいました。


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今回伺うのは新潟・三条市の日野浦刃物工房さん。

人間の手業で作られた暮らしの道具を工芸といいます。日本の伝統的な工芸には陶磁器や漆、木工、織物、染色などさまざまな分野のものがありますが、工芸の「工」という文字は、象形文字で握りのついた「のみ」、あるいは鍛冶をする時に使用する台座(金床 かなとこ)を表したものと言われます。そのことから、手先や道具を使ってものを作ることを意味するようになり、さらにものを作ることが上手であることを言うようになったとされているのです。

鍛冶仕事をする時の金床は、今でも三条の鍛冶屋さんの仕事場でも見ることができます。真っ赤になるまで熱された鉄のかたまりを金鎚でトンテンカンテン叩いてゆくと徐々に形が変わってゆき、やがては刃物や釘などになる。しかし、そんな鍛冶の仕事を目の前で実際に見ることはなかなかないでしょう。

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三条で鍛冶職人の第一人者として知られる日野浦司さんは、1905年創業の日野浦刃物工房の三代目。伝統工芸士でもあります。三条で今でも唯一、すべての工程を手作業で「鉈」を専門に作り続けているのが日野浦刃物工房です。鉈は、斧やまさかりよりも小型で、山に入る時に木の枝をはらったり、薪を割ったりするのに古くから農山村の各家庭で用いられてきた道具です。

日野浦さんは、息子である四代目の睦さんとともに伝統的な鍛冶仕事を守り続け、睦さんは実用的で昔ながらの鍛冶仕事を活かした味方屋ブランドを、司さんはより工芸品としての表現に挑んだ越後司ブランドを担当し、鉈をはじめ包丁や小刀などの製作で三条の伝統的な鍛冶仕事を担っています。

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味方屋ブランドの鉈



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こちらが越後司ブランド

今回はその仕事場で鉈の製作過程を見せていただきながら、鍛冶職人の仕事とはどんなものなのか、お話をうかがいました。

真っ赤に熱された鉄のかたまりを打つと火花が散る
迫力の鍛冶の仕事場

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まずは日野浦さんの仕事場で作業を見せていただきます。本日の作業は「鍛接」。鉄に鋼を付ける工程です。
鉈や斧、包丁などは、刃物の本体部分は鉄でできていますが、切れ味のよい刃の部分のみに鋼がつけられています。現在ほとんどの鍛冶工場では、最初から鉄と鋼を一体化した「利器材」と言われる材料を用いていますが、日野浦刃物工房では、鉄に鋼をつける工程から自社工場で行う本格的な刃物づくりにこだわっているのです。

鍛冶仕事に入る30分ほど前、炉を温め始めます。炉に火が入っただけでゴーッという音が仕事場に響き渡り、一気に鍛冶工場としての緊張感が高まっていきます。

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炉の前で頃合いを待つ日野浦さん。腕には火の粉を避けるためのアームカバーが。

炉が高温を保ち続け安定した温度になった頃、ようやく鉄の材料が炉の内部に入り、しばらく熱されると、炎のように真っ赤になったかたまりとして取り出されます。

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炉の内部

そして炉の前には、鉄を打つための金床。工芸の原点とも言える金床が置いてあります。

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日野浦さんは鉄を、そしてその後で鋼を、大きなやっとこのような工具で押さえながら、まずはスプリング・ハンマーという機械化されたハンマーで大まかに形を整えていきます。

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炉から取り出された直後。まるでマグマの塊のよう



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スプリングハンマーを打つごとに火花が散る、息を飲む瞬間

表、裏、側面と器用に材料を回転させながらハンマーで打っていくと金属のかたまりがだんだん刃物の形になっていき、そしてその後、鉄と鋼の材料を合わせ、接着剤のような役割となるホウ酸の粉を接合部に振り、台座の上で叩いて一体化させ、さらにスプリング・ハンマーで叩きます。

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この真っ赤に熱された鉄のかたまりを叩く工程が工芸の原点にあるのかと思うと、じっくりと見つめてしまいます。

見せていただいたこの鍛接の作業を始めとして、この後さらに形を整え、焼入れ、焼戻し、研磨など全部で23の工程を経て、ようやく1丁の鉈ができあがります。たいへんな技術と能力、熟練がないと、1つの金属のかたまりから鋭い刃物を生み出すことができないのです。

江戸時代に始まった
三条の鍛冶仕事

三条鍛冶のはじまりは江戸時代の初期だと言われています。
信濃川と五十嵐川のたび重なる氾濫で収穫を失った農民たちを救済するために、当時の代官・大谷清兵衛が農民に副業として和釘づくりを奨励したというのが定説になっています。

日野浦さんにさらに話を聞くと、
「恐らく、三条の鍛冶仕事の技術の多くは会津から伝わってきたのではないかと思うんです。会津は山が深く林業が盛んなので、山仕事をする人と道具を作る人が密接で、斧や鉈などいい道具が生み出されてきた土壌があった。それに会津若松は城下町でもあります。刀鍛冶や道具鍛冶もいて、鍛冶仕事のレベルは高かったはずです。そういった技術が街道を伝って三条に伝わってきたんでしょうね」。

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日野浦さんの祖先の一族は明治の末には、新潟県内の味方村(現在の西蒲原郡)で鎌鍛冶を営んでいました。

「今みたいに車のない時代ですから、味方村で鎌を作っても問屋に売ってもらうには、船に乗って三条まで持って来なければならない。それでどうせ鍛冶屋をやるんだったら三条でやろうと、移ってきたということです」

江戸時代から三条は金物の生産地であるだけでなく、問屋の集まる土地でもあり、彼らが水路を使って関東や関西に地元産の金物を運び売りさばいたことが、三条や燕の金物産業の発展にも大きく寄与しました。

「初代が味方屋を名乗ったのが 1905年(明治38年)ごろ。その息子たちが後を継ぎ、私で三代目です。私は地元の商社に就職後大阪勤務をしていましたが、22歳の時に家に戻り鍛冶の道に入りました」

昭和30年代までは戦後復興と高度経済成長で日本全国が建築ブームに湧き、木材伐採のための斧、鉞、鉈、木挽き鋸などの需要は右肩上がりでした。しかしその直後人が手作業でやっていた木を切る仕事はチェンソーなどの機械に取って変わられ、海外から安価な木材も入ってきて、三条の山林関係の刃物を作っていた業者は窮地に追い込まれてゆきます。早く安く大量に作らなければ生き残れない時代、三条の伝統の鍛冶仕事は存亡の危機に立たされます。

土佐に行き、三条の先輩に学び
刃物づくりを模索し続けた時期

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「当時、山仕事の刃物が優れているということでは土佐(高知県)が有名でした。土佐では森林率が県の80%以上で、やはりここでも山仕事と鍛冶が密接な環境があったのです」

山林用の道具を作っていた三条の鍛冶屋の多くが包丁などほかの道具鍛冶に転業するなか、日野浦さんは自分にはより優れた鉈を作るしか活路はないと、20代なかばで土佐に出向きます。土佐の鍛冶職人を訪ね、切れ味の優れた鉈を持ち帰り、その分析を行いました。独学で冶金学の本を読み、周囲の協力を得て土佐の刃物の特性を分析。ダイヤモンドの刃で鉈を切断し顕微鏡で金属の組織を観察するなど、追求を続けたのです。

その結果、優れた刃物がどんな性質を持つかはだんだんにわかってきました。しかし、わかったからといってそれを作るのは容易なことではありません。

「20代、30代はひたすら模索の時期でした。三条の鍛冶の先輩や、さらにその先生にわからないことを教えてもらい、それも一つ問題をクリアするとさらに2つも3つも課題が出てくるという具合でした。工程の多い手仕事にこだわると数を多く生産することができなくなる。それで父親ともずいぶん対立しました。自分自身でようやく納得のゆく品質の鉈を作ることができるようになったのは40歳になった頃でしょうか」

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今、三条の金属工場のほとんどはOEMと言って委託者のブランドの製品を作る仕事をメインにしています。自分の名前での鍛冶仕事ができる人はごくわずか。その第一人者が日野浦司さんです。

「誰が打ったかわかるものを作りたい。そう思ってそれまでは問屋さんに言われた刻印を製品に入れていたけれど、だんだん自分の名前を入れるようになった。それが味方屋作、そして越後司作です」

今、三条の日野浦刃物工房には、日本国内からのみならず、フランスやチェコなど海外からも味方屋作や越後司作の刃物の実物を見て買いたいとやってくる人々が訪れます。
切れ味がよく、その切れ味が長く続く、研ぐことによって再び優れた刃物として蘇る。そして見るからに風格がある。そんな刃物は、伝統の鍛冶仕事にこだわる日野浦さんの鍛冶場の金床から生み出されていました。




 文:鈴木伸子
写真:神宮巨樹

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