さんち 〜工芸と探訪〜

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さんちのオススメ産地 010 新潟 燕三条つばめさんじょう 燕三条つばめさんじょう

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新潟
燕三条

概要

世界に誇る伝統の鍛冶産業
時代と共に進化を続けるものづくりのまち

燕三条は、新潟県のほぼ中心に位置する燕市と三条市を合わせた地域。刃物・金物や洋食器の生産が盛んなエリアとして知られている。

信濃川の本流やその支枝流が集まる三条市は、古くから越後平野の要衝として栄えた商業都市。燕市で生産された金物や洋食器も、三条商人たちの手によって販路を広げ、燕三条のものづくりが多くの人々の生活に溶け込んできた。

古くから伝えられてきたものづくりの技術は、伝統を受け継ぎながらも時代と共に進化し続け、世界でも高いシェアを獲得するまでに躍進を遂げている。

そして燕三条といえば、豚の背脂たっぷりの「燕三条系ラーメン」でも有名。職人たちの好みや環境に合わせて作られた出前のラーメンが発展したもの。

ものづくりの街が生み出したラーメンは、彼らの手がける工芸品とともに広く親しまれている。

歴史

信濃川が江戸に伝えた燕三条のものづくり 工芸品と技術は世界へ

三条は、かの戦国武将・長尾景虎 (ながおかげとら、後の上杉謙信) に連なる越後府中長尾氏はもともと蒲原 (かんばら) 郡代兼守護代として拠点にしており、戦乱の世を目撃してきた歴史的重要地でもある。

数々の戦いをくぐり抜けた三条城は信濃川とともに時代を重ねながら、最後は荒ぶる川に飲み込まれてしまったが、現在は法華宗陣門流 (ほっけしゅうじんもんりゅう) の総本山・本成寺 (ほんじょうじ) 付近の寺社群と門前町がその雰囲気を残している。

一方で燕市は、江戸時代後期の僧侶であり、詩人・歌人・書家としても活躍した良寛(りょうかん)が修業に励み、その芸術性が円熟期を迎えた場所。霊峰・弥彦山 (やひこやま) に連なる国上山(くがみやま)の中腹、国上寺では、ゆかりの史跡や歌碑などを数多く見ることができる。

そんな燕三条における金属加工の歴史は、寛永年間、信濃川の氾濫に苦しむ農村救済のため、時の代官大谷清兵衛が領民に和釘の製造を奨励したことが始まりと言われている。鍛冶産業は瞬く間に、農村地帯の副業として広まっていった。

1657(明暦3)年に起こった「明暦の大火」など、江戸で数知れず起こった火災にはこの和釘が信濃川を流通経路として運ばれ、災害復旧に大きな役割を果たしたことから、その需要は高まってゆく。

ほど近くにそびえる間瀬銅山から資源を調達できたことも大きいだろう、次第に専業の鍛冶職人や、三条商人と呼ばれる金物を専門にする商人も現れ、鍛冶は地場産業として根付くこととなった。また、鍛冶技術の向上にともない、キセルや矢立など芸術性の高い工芸品も作られるようになった。

ところが、明治期に西洋から洋釘が導入されると和釘の需要が激減。第一次大戦の影響で銅の価格も急騰し、燕三条の鍛冶産業は大きな苦境に立たされることとなった。

しかし、大正初期から始めた金属洋食器工業が需要を拡大、銅の代わりとして登場したステンレス銅の製造も本格化させると鍛冶産業は再び活気を取り戻し、今や世界有数の高い技術力を誇るまでに成長。

国内外に根強いファンを持つアウトドアブランド「スノーピーク」、Apple社製品部品の金型も手がけたこともある「MGNET」など、燕三条を拠点に世界を魅了する企業も多い。

文明開化や世界大戦、グローバル化と時代の移り変わりの中で新しい可能性を切り拓いてきた燕三条の伝統技術は、今もなお、さらなる進化を続けている。

また、2013年からは燕市・三条市が合同で企画する工場見学イベント「燕三条 工場の祭典」が開催されている。2016年には約35,000人もの来場者数を記録した。

脈々と受け継がれてきた高度なものづくりの技術が、広く一般に知られるという新しい地域活性のモデルケースとしても目が離せない。

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