概要
奈良墨とは奈良の伝統工芸品で、「煤(すす)」「膠(にかわ)」「香料」を練り固めて作った文具のこと。硯で水とともに磨った液体を書画などに用いる。奈良の特産品として製造され、日本国内におけるシェアは95%以上。固形墨のほとんどを占める。

『古梅園墨談』(大正15年発行)より、墨づくりの様子。

墨師が脈々と受け継いできた伝統の技はとても貴重なもの。

蔵の中で墨を自然乾燥。これも古くから続く製法そのまま。
歴史
日本の墨づくりの歴史は古く、『日本書紀』の記述によると推古天皇の610年、高句麗の僧である曇徴(どんちょう)から墨づくりの技法が伝えられたとされており、これが日本の墨づくりに関する最古の記録である。
9世紀初頭には、国家の管理のもと全国各地で墨がつくられていたが、これらは松脂を含む松の木を燃やして採取した松煙からつくられた松煙墨。一方、現在まで奈良で製造される奈良墨のほとんどは菜種油やごま油などの植物性の油を燃やして採取する油煙からつくる油煙墨が主流である。室町時代に興福寺二諦坊の燈明の煤を集めて墨をつくったことが油煙墨のはじまりとされ、圧倒的に品質の良かった奈良の墨は、南都油煙と呼ばれ墨の代名詞となった。興福寺などの寺院で奈良墨の製造が行われてきた背景には、写経をはじめとした仏教文化に、墨が必要不可欠であったことが影響している。
この頃は、寺社の指図で墨師が原料を寺社からもらい受け、墨をつくって納めるといった職人仕事だったが、寺社の力が次第に衰えてきた16世紀の末には、墨師が店舗を構え商売をする「墨屋」が奈良の町に登場。近世には朝廷や幕府の用達を務める御用墨師など、官名を受けた墨屋が多くなり、奈良墨は奈良の名産品として土産物の代表格となる。江戸時代初期から中期にかけて、奈良盆地で菜種作りが盛んであったことも、菜種油を原料とする墨づくりが奈良の地で続いてきた理由のひとつ。さらに、近世中期以降の寺子屋の普及で墨が使われたことも大きく影響している。
昭和に入ると若手職人や製墨業者の後継ぎが徴兵され、職人不足に陥ったことで生産が減少するが、文房具として墨の需要は高く、戦時統制品として生産を停止されることはなかった。昭和30年代には習字教育が復活し書道教室が増加したことから、再び墨の生産・需要が再び増加したが、現代では多種多様な文房具の発達によって、墨ばなれが進み、墨の需要は激減している。多い時には250人を超す職人と44軒あった製墨業者も、2016年現在、奈良製墨組合には5件の固形墨製造業者と14人の墨職人が属すのみとなっている。