さんち 〜工芸と探訪〜

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産地の工芸品

奈良県

奈良・大和郡山・生駒

あかはだやき 赤膚焼

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概要

 奈良市五条山一帯の丘陵で作られてきた焼き物。その名前の由来は五条山の別名、赤膚山から来ているとも、赤色に焼ける土の色から来ているとも言われるが、史料に乏しく、諸説ある。遠州七窯(江戸初頭を代表する大名茶人であった小堀遠州が指導したと伝える七つの窯)の一つ。
現在6軒の窯元がある。

歴史

一帯の土質は陶器に適しており、古くから焼き物作りが行われていたようだ。その歴史を古窯・旧窯・新窯の3つに分ける考え方がある。古窯は古代、その良質な土を使って埴輪の製作などを司った土師氏(はじうじ。ハニ(土器や瓦などの製作に適した粘土)に由来する)の焼き物まで遡る。万葉集で有名な「青丹よし」の枕詞も、奈良山に良質のハニの存在することを示しているそうだ。そこから、中世に神仏への供御器製作を任された「春日赤白土器座」や「西京土器座」などのいわば同業組合がこの地で結成された。かつて都のあった土地らしく、その歴史は神事と深く関わっているようだ。この頃までを古窯とする。
 旧窯は天正年間(1573-1593年)に豊臣秀吉の弟、秀長が当時の郡山城主として土地を治めた際に常滑から陶工・与九郎を呼んで開かせたもの。信長の時代に始まり、当時は武将への褒美の品として重用されていた、茶道具を作らせるためだったという。一般にこの旧窯の時代から産業としての赤膚焼が確立したとされている。
 新窯は寛政年間(1789-1801年)に郡山藩主の柳澤尭山(やなぎさわぎょうざん)が起こしたもので、当時衰退していた窯業を復興を目的とした。信楽や京都からも陶工を招いて窯を開かせ、中でも京都から招いた治兵衛の窯に赤膚焼の窯号や「赤ハタ」の銅印を与えるなど、郡山藩御用窯として重用した。当時五条山には3つの窯があったとされている。
 こうした歴史を経て、江戸末期に一躍赤膚焼の名を有名にした名工が登場する。奥田木白(おくだもくはく)(1800-1871年)。家が郡山藩の御用小間物商で「柏屋」といい、木白の名前はここから来ている。商いを通じて藩の上級藩士や寺院、豪商とも深い付き合いがあり、美術品の鑑定などの文化的交流も経て、木白は自ずとその美術的感性を磨いていったとされる。35歳の時に趣味で始めた楽焼が長じて、1850年にはついに陶器師を本業とするようになる。各地の焼きものを精巧に写した器を多く作り、「諸国模物處(しょこくうつしものどころ)」と評された。
 元々この一帯は土の層が薄く、採取する場所によって土の色が変わるという。近年では奈良の風物を描いた奈良絵の器=赤膚焼、のイメージが強いが、そうした土壌の上で土や釉薬、焼き方にこだわらず、あらゆる焼き物を自在に作ってきたのが、赤膚焼の特徴と言える。

近年の赤膚焼の定番、奈良の風物をあしらった奈良絵の豆皿。

近年の赤膚焼の定番、奈良の風物をあしらった奈良絵の豆皿。

奥田木白が取り入れた赤膚焼を代表する釉薬、赤膚釉のかかった抹茶碗。釉薬のかかっていない ところだけ赤く染まる。これも赤膚焼の名前の由来の有力説だ

奥田木白が取り入れた赤膚焼を代表する釉薬、赤膚釉のかかった抹茶碗。釉薬のかかっていないところだけ赤く染まる。これも赤膚焼の名前の由来の有力説だ

奥田木白作「靭猿」

奥田木白作「靭猿」

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