さんちのオススメ産地 19 長崎ながさき
概要
日本の食卓を支える焼き物の町
長崎県のほぼ中央に位置し、県内で唯一海に面していない町。虚空蔵山系や神六山系、弘法岳山系に囲まれ、棚田や沢の景色が広がるのどかな地域である。
「波佐見焼」の産地としても知られ、2016年に日本遺産に登録された肥前窯業圏(佐賀県の唐津市、伊万里市、武雄市、嬉野市、有田町、長崎県の佐世保市、平戸市、波佐見町の8市町村で構成)に属する。
和食器の出荷額は美濃焼(岐阜)、有田焼(佐賀)につづき国内第3位。江戸時代より磁器の大量生産を得意とし、当時高価であった磁器を日本の食卓に定着させた立役者でもある。
型作りと生地作り、釉薬、窯焼きなどの各工程をそれぞれの会社が担当し、会社を超えた分業制でつくられる波佐見焼。町内にはかつて石炭窯で使われた煉瓦造りの煙突群や、製陶所跡を改装したカフェがあり、小高い丘の上にある「やきもの公園」はスツールや案内板も全て磁器でできている。公園では毎年ゴールデンウィークに波佐見陶器祭が開催され、多くの買い物客で賑わう。
日本の食卓に焼き物の魅力を伝え、老若男女問わず人気を集める焼き物の町である。
歴史
400年続く産業を守る町
旧石器時代や縄文時代の土器石器類が発掘されたり、飛鳥時代に行基が建立したといわれる東前寺があるなど、古くから人々が暮らしていた波佐見町。
その歴史は大村家と深く関わっている。大村家はキリシタン大名として知られる18代当主大村純忠で名を知られ、1587年に豊臣秀吉より安堵されて立藩した約2万8千石の外様小藩である。波佐見町も大村氏が治め、キリスト教と深く関わって来た。
1582年には、波佐見町からひとりの少年が海外へと向かった。天正遣欧使節の原マルチノである。有馬のセミナリヨに通う学生で、使節団では最年少の当時13才。当時ポルトガル領だったインドのゴアで行ったラテン語でのスピーチは『原マルチノの演説』として、日本人による初めての活版印刷物となった。8年間の航海から長崎に戻った後は、1614年の禁教令でマカオに追放されるまで司祭として活躍。波佐見町には原マルチノの銅像が立っている。
いまや町の代名詞とも言える波佐見焼は、原マルチノが生きた時代、1598年に大村藩の初代藩主の大村喜前(よしあき)が朝鮮出兵から連れ帰って来た朝鮮人陶工たちによってはじまった。
波佐見焼が庶民の食卓に定着しはじめたのは、江戸時代から。当時、大阪では淀川を船で行き来する労働者たちに、小船の上から「餅くらわんか、酒くらわんか」と少し乱暴に声を掛けながらお酒や食べ物を売る商売が繁盛した。そこで使われたのが丈夫で壊れにくい厚手の「くらわんか椀」だ。くらわんか椀の誕生により、高級品というイメージがあった磁器が日用品として家庭にひろまった。波佐見焼は大量生産を得意とし、生産量が日本一を誇るまでになった。かつての波佐見焼は染付と青磁が主だったが、現在は、若手の職人たちを中心にカラフルな波佐見焼が生まれ、人気を博している。
また陶石だけでなく江戸時代には銅、明治時代には金が採掘されていた。1897年に採掘が開始された波佐見金山には火力発電所が建設され、1914年の閉山までに、最盛期には1000人以上の従業員が、毎日100台以上の馬車で有田から石炭を運んだ。
山に囲まれた自然豊かな土地で、産業と暮らしを育んできた地域である。
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