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益子焼とは。作家もの、民藝のうつわ、峠の釜飯…多様な「顔」の歴史と今

投稿日: 2019年10月30日
産地:
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もうすぐ秋の陶器市が始まる益子。知っておきたい益子焼の基本の知識と歴史をご紹介します。

編集部が総力取材した関連記事も載せているので、合わせてどうぞ。

益子焼とはどのような焼物か?その特徴をひも解く

益子焼とは、茨城県の笠間焼と並び、関東を代表する焼物。江戸時代末期に栃木県益子町で誕生し、主に鉢や水がめ、土瓶などの台所用品が生産されてきた。

昭和に入ると、哲学者・柳宗悦 (やなぎ・むねよし) らと共に民藝運動を推し進める、陶芸作家・濱田庄司(はまだ・しょうじ)によって民藝品として注目されるようになり、その名は全国区となる。

益子焼の特徴で面白いのは「土の質感」。陶土は砂気が多く、粘性が少ない。その為、細かい細工にはあまり向かず、どうしても肉厚に作られる。そのぽってりとたフォルム、素朴で温かみのある風合いが特徴的だ。

益子焼

益子焼の歴史をたどる。時代に翻弄された作家たち

益子町の南部には丘陵地が広がり、その一部から陶土が採れ、薪に適した赤松にも恵まれていたことから、古くから須恵器が作られてきた。

益子

その証拠に、丘陵地帯からは7世紀~8世紀に使われていたとされる窯跡がいくつか発見されている。しかし、その後、鎌倉時代になると、須恵器の生産は廃れてしまう。

益子に窯の火が再び灯されるようになったのは、江戸時代の終わりの1853年 (嘉永6年) のこと。笠間で作陶を学んだ陶芸作家・大塚啓三郎(おおつか・けいさぶろう)が根小屋窯を築いたのが、今日の益子焼のはじまりだとか。

そのころ益子を治めていた黒羽藩は、益子焼を殖産事業として援助し、黒羽藩の専売品となるほどに発展。鬼怒川を通じて、土瓶やすり鉢、壺などの台所用品は江戸にまで普及するようになっていた。

益子焼の土瓶。重厚な色合い、ぼってりとした肌触りが特徴

益子焼の土瓶。重厚な色合い、ぼってりとした肌触りが特徴

1871年 (明治4年) の「廃藩置県」後は御用窯から民窯へ。藩からの支援はなくなったものの、窯数は増え続け、鉄道の開通も追い風となって順調に販路を拡大していった。

一時期はアメリカにも輸出するようになったが、その需要の高さが裏目に出て粗悪品の乱売も目立つようになり、益子焼の信用は落ちてしまう。

そこで、1903年 (明治36年) に益子陶器同業組合と益子陶器伝習所が設立。益子焼とは何なのかの見直し、信用回復と職人育成に取り組んでいった。その結果、明治30年代には、窯元数は50以上となり、益子焼は再び盛況を取り戻す。

しかし、この好況はそう長くは続かなかった。

明治末期から大正時代にかけて、人々の生活様式が大きく変化する。台所で使用される燃料も木炭から石炭ガスへと切り替わっていき、高熱に耐えられない益子焼はアルミニウムなどの金属製のものに取って代わられたのだ。

1920年 (大正9年) には一時的に製造が中止されるほど、益子焼は不況に陥ってしまう。

そんな中、1923年 (大正12年) 9月に起きた関東大震災で状況は一変する。東京での台所用品の需要が急増し、しばらくの間、供給が追いつかないほどの活況を呈した。

陶芸作家・濱田庄司による益子焼の再生

1924年 (大正13年) には濱田庄司が益子に移住。柳宗悦らと民藝運動を提唱する濱田は、益子焼に「用の美」を見出し、茶器や花器など民藝品としての益子焼の作陶に励んだ。

濱田庄司

濱田庄司

濱田の存在とその作品は、民藝運動の高まりとともに益子焼を世に広く知らしめただけではない。地元の陶芸作家たちにも多大な影響を与え、益子焼は日用雑器から民藝品へと徐々に移り変わっていった。

関連する見どころ:「世界の民芸品が2000点!人間国宝・濱田庄司のコレクションが見られる資料館」

益子焼と作家文化の移り変わり。生活用品から民藝品へ

そうした転換の背景には、日本人の生活様式の変化や科学技術の進歩による影響も大きい。

1950年 (昭和25年) ごろを境に、これまでの益子焼を支えていた日用雑器の需要は減っていき、窯元はその変化に応じるべく、生産の中心を民藝品へと転じていった。

高度経済成長期に入ると、都市化が進む一方で、伝統文化や里山への郷愁が強まり、1950年代後半から70年代にかけて全国的に民藝ブームが起きる。

それをきっかけに、益子を目指す作家は増えていった。加守田章二 (かもだ・しょうじ) もその一人。1959年 (昭和34年) に益子で窯を築き、その創造性は民藝一色だった益子焼に、濱田とは別の潮流を形成する。

1950年代のもう一つの益子焼の物語はこちら:「益子焼を救った人気駅弁『峠の釜めし』誕生秘話」

現在の「益子焼」

その後、1979年 (昭和54年) に国の伝統的工芸品に指定され、現在では約250もの窯元がある。

幅広い世代の陶芸作家が作り出す益子焼の姿は多種多様で、濱田が大成した伝統的な民藝陶を意識したものもあれば、自由な創作陶芸も。その千差万別さは、現在の益子焼の特徴のひとつともいえるだろう。

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益子焼の一大イベント。春と秋に陶器市が開催

1966年(昭和41年)から始まった益子の陶器市は、毎年の春と秋に開催され、合わせて約60万人が集まる一大イベントだ。

陶器市では、時代の中で変化を重ねてきたの益子焼の「今」に触れることができる。

益子 陶器市

<参考資料>
・主婦と生活社 編『益子・笠間やきもの紀行』主婦と生活社(1995年)
・つかもと
http://www.tsukamoto.net/history/
・栃木県教育委員会「とちぎふるさと学習」
http://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=64&r=340
・陶の里かさましこ
http://www.kasamashiko.jp/rekishi/index.html
(以上サイトアクセス日:2019年10月30日)

<画像提供>
style select shop まほろ
https://www.maholo.net/

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