さんち 〜工芸と探訪〜

SUNCHI ~ Explore japan through regional crafts ~

このページの先頭へ

あなただけの
さんちの手帖に

会員登録を行うことでお気に入りの読み物に栞を挟むことが出来ます。記事に栞を挟んで自分だけの栞帖をつくってみませんか?
メールアドレス:(必須)
※ 「.@(@の前にドット)」、「..(ドット2つ)」を含むメールアドレスはご利用いただけません
メールアドレスは既に使われているか、正しい形式で入力してください
会員登録する
既にアカウントをお持ちの方は こちら

退会手続き

退会すると栞した読み物や産地の情報が完全に消去され復元することはできません。本当に退会しますか?
キャンセル
退会する

産地の工芸品

三重

菰野町

よっかいちばんこやき 四日市萬古焼

  • LINE

概要

三重県四日市市の代表的な地場産業であり、1979年に国の伝統工芸品に指定された四日市萬古焼。現在、四日市市と菰野町を中心に窯元数は100社以上にのぼる。

土鍋の国内シェアは、80~90パーセント近くを占める。バリエーションを見ると、近年は大きさや形状も様々に増え、陶板、タジン鍋、ごはん釜、炭コンロなど、多彩な商品が開発されている。特に高度な技術を使った電磁調理器具用のIH土鍋の開発も盛んだ。

萬古焼土鍋の特徴はその陶土にある。耐熱性に特に優れガスレンジや炭火等の空焚きや直火に対しても、高度の耐久性を発揮する。

急須もまた、土鍋と並び萬古焼を代表する商品のひとつ。使えば使うほどに味わいと光沢を増すと言われている紫泥の急須が特に有名である。鉄分を含む地元の赤土粘土を使用し還元焼成を行い、釉薬をかけない焼き締まった色は緑茶によく合うと言われている。

歴史

萬古焼の発祥は江戸時代の中期 (1736~41年)  。桑名の豪商・沼波弄山(ぬなみ・ろうざん) が趣味として京焼の技法を取り入れて始めたものとされている。後世に受け継がれ永続することを願い「萬古不易(ばんこふえき)」の印を押したことが、名前の由来となっている。

弄山は、幼い頃から茶道に精通した茶人で、色絵を中心とした抹茶趣味の優雅な作品を作り出した。これを古萬古と呼ぶ。

当初は、茶陶の巧みな写しを作っていたが、1720年に8代将軍徳川吉宗による洋書解禁の令によって西洋の文物が少しずつ紹介されるようになると知識人であった弄山は新しいものに魅せられ、異国風の斬新な文様や形を作品に取り入れるようになる。それらの作品は、鎖国下にあった日本の知識人から大いに人気を集めた。その人気が過熱し将軍家からの注文を受けるようになると、江戸・向島小梅に窯を設けた。これを江戸萬古という。

弄山の死とともに一時中断するものの、江戸時代後期になり再び焼かれるようになる。桑名の古物商であった森有節 (もりゆうせつ) と弟の千秋 (せんしゅう) が再興のために窯を開いた (有節萬古) 。当初は古萬の作風を再現したものが作られたが、次第に時代を先取りするような独自の表現をいくつも生み出し、大いに人気を集めていった。

萬古の時代には抹茶趣味が盛んであったが、有節萬古の時代には煎茶趣味が流行しつつあった。そこで有節は、煎茶急須を研究し、木型による急須を考案した。型を使うため、非常に薄づくりで、内部に龍の陰刻がされた急須などは大いに珍しがられた。さらには、ピンク色の釉薬の発明や華麗な色絵が施された急須などは西洋人からも高く評価され、有節の名は広く知れ渡った。

明治時代に入ると、パリ万博や内国勧業博覧会、京都博覧会などへ出品され、多くの賞を受け、高く評価された。その頃から、桑名周辺では有節萬古に似た品が盛んに作られた。これを桑名萬古という。

桑名萬古は、東海道の旅人に売り出されたが、明治維新後にいち早く開港した四日市に交通や商業の中心が移るとともに、四日市で作られた萬古焼に吸収されていった。

四日市萬古は、四日市の大地主で村役であった山中忠左衛門が邸内に窯を築いたことに始まる。有節萬古の人気に注目し研究するがうまくいかず、同地で作られていた信楽焼風の雑器を作っていた海蔵庵窯 (かいぞうあんがま) にて手ほどきを受けた。

慈善家として知られる忠左衛門が萬古焼を始めた理由は、水害による地区住民の救済にあった。自らが会得し陶法を民に伝授し、道具と材料を与えた。これをきっかけに新たに開業する者が増え、名工も生まれた。こうして1873年には量産体制が確率したのであった。

四日市に根を下ろした萬古焼はその後、地場産業として定着。商人たちの奮闘や開港や関西鉄道の開通 (1890年) によって販路が広がり商工業として活気付いていった四日市萬古焼であったが、明治時代中期になると停滞していく。原因は、原料の白土の枯渇。そこで、赤土を用いたろくろ引きの紫泥急須が生み出されその生産が主流となる。盛り返しをみせる。

また、当時台頭していた瀬戸・美濃の磁気に対抗する新商品として、1911年に水谷寅次郎が半磁気の製造開発に成功する。半磁器とは、磁器土 (石) と陶土 (土)を合わせた生地で作る焼き物のこと。その特徴は、土の温かみが感じられ、大きな物の成形に適していること、磁器よりも低い温度 (1180度前後) で焼成でき、なおかつ下絵付けの発色が良いこと。翌年1912年、大正時代となったことを記念して「大正焼」と命名された。

半磁器の出現により萬古焼の食器の生産は飛躍的に伸び、四日市港からの輸出も増大し、全国有数の陶磁器産地として育つこととなった。

昭和後期になると耐熱性を向上させる技法が開発され、土鍋の生産量は国産では日本一に。現在では、商品目もありとあらゆるテーブルウェアに増え、国内のみならず海外にもその市場を広げている。

  • LINE

Follow us

全国の工芸・産地にまつわる読み物を毎日更新しています

さんち〜工芸と探訪〜の読み物は各種ソーシャルメディアでも配信中。 今すぐフォローして最新情報をチェックしよう!

この読み物の産地

関連の読み物

「さんち 〜工芸と探訪〜」がアプリ「さんちの手帖」として登場しました。記事を読むだけではなく、旅の栞や旅印帖として使える、あなたのおともになるアプリです。

  • App Storeからダウンロード
  • Google Playで手に入れよう

アプリの詳細を見る