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木彫り熊はいつ鮭をくわえたのか? 八雲町と旭川の木彫り熊ルーツを探る

産地: 函館
投稿日: 2017年3月19日
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こんにちは。さんち編集部の山口綾子です。
皆さんは北海道土産の定番と言えば何を思い浮かべますか?チョコレート、バターや牛乳を使ったお菓子、海産物…などなど。どうしても豊かな食に目が行きがちですが、忘れてほしくないのが“木彫り熊”。鮭をくわえた野性味あふれる熊の彫刻。そういえば、実家にある!おばあちゃん家で見たことがある!という方もいるかもしれません。では、いつから“木彫り熊”が北海道土産の定番の1つとなったのか?誰がどこで最初に作ったものなのか?今回は“木彫り熊”のルーツを探るべく、北海道に足を運んでみました。

八雲町木彫り熊資料館へ

hakugin

“木彫り熊”について調べてみると、すぐに「八雲町」と「旭川のアイヌ民族」という2つがキーワードとして現れました。さらに八雲町には2014年4月にオープンした“木彫り熊資料館”なるものがあるようです。話は早い、いざ八雲町へ! 八雲町は、日本で唯一太平洋と日本海の両方に面する町で、北海道の地図でいうと左側のぐっと曲がったあたりに位置します。雪がちらつく中、函館から車で2時間ほど。“八雲町木彫り熊資料館”に到着しました。

学芸員の大谷茂之さん

学芸員の大谷茂之さん

———早速、学芸員の大谷さんに木彫り熊発祥の歴史について教えていただきます。大谷さん、よろしくお願いいたします。

木彫り熊の話の前に、江戸時代には徳川御三家筆頭であった尾張徳川家と八雲の関係を説明させてください。
そもそも八雲というのは、明治維新で侍という職がなくなり、いわば失職中だった旧尾張藩士たちの未来を憂いた旧藩主の徳川慶勝が、彼らの生計を立てるために北海道に開拓地を求めて場所を選定して明治政府に払い下げを求め、明治11年(1878年)から旧藩士たちが移住し開墾していった土地なんです。八雲という地名も、慶勝が「八雲たつ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」という須佐之男命(すさのおのみこと)の古歌の初句から「八雲」と名づけた、そんな場所です。
明治43年(1910年)から、開墾した八雲の土地が移住人に無償譲渡されます。これを決めたのがこの年に尾張徳川家十九代当主になった徳川義親(よしちか)さんです。義親は慶勝の孫にあたる立場、越前福井藩主・松平春嶽の五男で御養子なんですが、古くからの慣習に縛られることがない、思い切った決断を色々しています。この義親が木彫り熊の話の主人公です。

八雲町の名誉町民にもなった徳川義親

八雲町の名誉町民にもなった徳川義親

義親は大正7年(1918年)に八雲を訪ねたとき、アイヌとともに熊狩りを経験します。学者としての側面が強いお殿様なので、初めから狩猟好きだったというわけではないようです。八雲で熊による被害が出ているので人々の安全を守るという理由と、アイヌの祭祀「熊送り」の伝統を継続させるという目的もあったようです。アイヌの父と呼ばれるジョン・バチェラーとも親しく色々と援助し、アイヌの口伝の話も書き留めたりしています。 義親はこの後、毎年のように八雲を訪れては熊狩りや遊楽部川(ゆうらっぷがわ)での鱒釣りを行い、また皇室・華族を含む多くの方を八雲に招待しています。そうやって数多く訪れる中で、八雲で木の家ではなく壁すら萱の家に住んでいた農民たちの貧しい暮らしを目のあたりにしたんでしょう。これじゃあいけない、生活を良くしなくては…と問題意識を持ったようです。全国的にも農村から都市へ人が流出してしまって、農村生活が悪くなっていた頃です。

大正10年(1921年)から義親は夫人の米子と一緒に一年間のヨーロッパ旅行をするんですが、途中立ち寄ったスイスのベルンで木彫り熊を見つけます。ベルンは町の真ん中で熊を飼い、町全体が木彫り熊で飾られる熊(ベア)を名前の由来とする町でした。また、農民美術(ペザントアート)として木彫り熊が成立していました。農閑期にスイスの農民たちが木彫り熊を作って観光客に売っている、これは八雲でもできるのではないかとそう考えて、義親は幾つかの木彫り熊等の土産品を持ち帰るんです。

昭和初期(1920~30年頃)に参考にしたイタリア製のカエルとウサギ、ドイツ製のツバメ

昭和初期(1920~30年頃)に参考にしたイタリア製のカエルとウサギ、ドイツ製のツバメ

イタリア製の巻きタバコ用灰皿

イタリア製の巻きタバコ用灰皿

大正12年(1923年)、義親は木彫り熊等を八雲に持ち込んで「とにかく作ってみて、出来も不出来も全て私が買い上げよう」と農民たちに奨励します。実際に買い上げて倉庫が一杯になってしまった、それを示す写真もあります。そして大正13年(1924年)に“八雲農村美術工芸品評会”の 第1回が開催されます。即売会的な面も持っていたようで、農民の収入にするために考えて開かれました。義親と八雲の人たちの良好な関係があって1097点もの作品が集まったそうです。ただ、農民に“美術”という概念がそもそもない時代です。
出品されたものを見てみると、愛知県からは切り干し大根、北海道からはかぼちゃなど美術工芸品とは言えないものもありました。我々は今でこそ美術工芸品や民芸品をイメージできますが、農村では美術工芸は一般的ではなく、“民芸品”という言葉も大正14、5年(1925、6年)くらいに作られたものですからね。単なる副業だけではなく、縁遠かった美術を趣味として定着させ、豊かな農村生活を目指しての開催でした。
そして、品評会には伊藤政雄という方が作った最初の木彫り熊が出品されました。

北海道木彫り熊 第1号

北海道木彫り熊 第1号

スイスの木彫り熊

スイスの木彫り熊

スイスの木彫り熊とすごく似ていますね。口の中が赤いのと、鼻が黒いのとポージングが一緒。ただスイスのものは目がガラス玉ですが、八雲のものは当時ガラス玉がなかったのか、釘を打って目の代わりにしています。毛彫りのために、こうもり傘の三角になった骨の部分、それを削って彫刻刀代わりにしていました。のちに尾張徳川家のお抱え大工から彫刻刀を買って使うようになったそうです。

その後、各地の品評会で木彫り熊が入賞し、昭和2年(1927年)に伊藤政雄の木彫り熊が北海道奥羽六県連合副業共進会で1等賞を受賞して、全国的にも注目を集めます。その流れで昭和3年(1928年)には、“八雲農民美術研究会”が設立されました。慶勝が主導して八雲開拓を始めてから50周年にあたります。これまで多種多様な農村美術を作ってきましたが、むしろ種類を絞り込んで、八雲を代表する作品を決めました。それに木彫り熊が選ばれたのです。静養で八雲を訪れていた日本画家の十倉金之(とくら・かねゆき)が呼ばれ、伊藤政雄と共に講師として“八雲農民美術研究会”の講習会が開かれるようになります。受講者には柴崎重行や中里伊三郎がいました。さらに“熊彫”(義親が趣味としていた熊狩りにちなんで)というブランドが作られました。

八雲の熊彫ポスター 昭和初期(1920~30年頃)

八雲の熊彫ポスター 昭和初期(1920~30年頃)

また、制作の参考になるように本物の熊、オスとメスの2頭を飼っていました。
2頭は檻の中にいて食べて寝てをくり返してどんどん肥えていったため、それが八雲の木彫り熊にも反映されていると言われています。またとても人馴れした熊だったことから、人々は熊に対して親しみを持っていて、荒々しい熊というよりは優しい顔の熊・愛らしい擬人化した熊を彫ったと言われています。またこの頃から作られるようになった木彫り熊の特徴は、背中のコブのような盛り上がりから毛が流れているものです。この毛の流れは実際の熊にはなく、日本画の表現方法と言われています。

菊の花のように毛並みを彫る菊型毛

菊の花のように毛並みを彫る菊型毛

日本画家の十倉の影響を受けた毛の流れを表現した八雲の木彫り熊の特徴でもある「毛彫り」と、面で表現する「面彫り」という技法も確立されました。

「面彫り」の木彫り熊たち 柴崎重行作

「面彫り」の木彫り熊たち 柴崎重行作

昭和6年頃(1931年頃)には品評会で良しとされた熊のみ販売が許され、足の裏に焼印を入れていました。今で言う地域ブランディングですね。この頃、第7回道展彫刻の部で柴崎重行の「熊」が入選します。さらに昭和7年(1932年)には「北海道観光客の一番喜ぶ土産品は、八雲の木彫り熊」と雑誌で紹介されるほど有名になります。
そんな盛り上がりの最中、昭和18年(1943年)。陸軍の飛行場ができることになり、徳川農場は移転を余儀なくされます。金属類回収令のため、檻は持って行かれて熊は銃殺されました。戦後には制作の材料や販売ルートも無くなって、八雲で木彫り熊を制作するのは茂木多喜治と柴崎重行の2人のみになりますが、上村信光・引間二郎・加藤貞夫といったすばらしい後進が育ちました。

加藤貞夫の木彫り熊たち

加藤貞夫の木彫り熊たち

上村信光の木彫り熊たち

上村信光の木彫り熊たち

引間二郎の木彫り熊たち

引間二郎の木彫り熊たち


茂木多喜治は八雲の木彫り熊の伝統を作ったと考えています。昭和天皇に木彫り熊を献上したことをきっかけとして、昭和11年(1936年)頃から木彫り熊の制作を専業とします。山歩きが趣味で、熊を撃って解体し、筋肉の付き方や関節の可動範囲を調べて木彫り熊制作に生かしていました。

茂木多喜治の木彫り熊たち

茂木多喜治の木彫り熊たち

柴崎重行は“柴崎彫り(ハツリ彫りとも)”と呼ばれる面彫りの手法で独自の世界を作りました。斧で木を割っただけのような作品です。柴崎は、木彫り熊作家というよりは、熊をモチーフにした彫刻家として高く評価されています。

柴崎重行の木彫り熊たち

柴崎重行の木彫り熊たち

———ちなみに、“鮭をくわえた木彫り熊”は誰の手で作られたのでしょうか?

八雲では“鮭くわえ熊”として昭和6、7年(1931、2)頃に販売されたそうですが、誰が最初に作ったのかはわかっていません。八雲を流れる遊楽部川は今でも鮭があがりますし、鮭をくわえた熊が作られても不思議ではありません。しかし、八雲の木彫り熊はこれまで紹介してきたような作品が主で、鮭をくわえた熊はほとんど作られていません。鮭をくわえた熊が北海道の定番、北海道のアイコンともいえる存在となるのは、昭和30~40年(1950~60年)代の北海道観光ブームで全道的に作られるようになってからのようです。その元となった熊が八雲なのかどうか、そもそもあるのかどうかさえ今のところわかっていません。

旭川の鮭くわえ熊

旭川の鮭くわえ熊

———八雲町の木彫り熊の詳しいお話は聞けたものの、定番の“鮭をくわえた木彫り熊”を誰が作り出したのかは謎に包まれたまま…!となると、もう1つの発祥地と言われている旭川のアイヌ民族による木彫り熊のルーツを調べてみる必要がありそうです。大谷さんも「旭川の木彫り熊のことなら、あの方で間違いない」とおっしゃる、旭川市経済観光部工芸センターの秋山さんにお話を伺ってみました。

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