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日本職人巡歴

日本職人巡歴 一度は消えかけた「房州鋸」その復活劇

投稿日: 2017年11月11日
産地: 千葉
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こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は日本で唯一の存在であり、さらに注文が引きも切らない房州鋸 (ぼうしゅうのこ) 職人のお話をお届けします。

奥深き、鋸の世界を知る

鋸 (のこぎり) 。この言葉から思い浮かぶのは、大工さんが大きな鋸を前後に素早く動かして、丸太をギコギコと切っている姿だった。しかし、今や日本で唯一となった房州鋸職人、粕谷雄治 (かすや・ゆうじ) さんの仕事ぶりを聞いて僕の安易なイメージは覆された。

粕谷さんが作る房州鋸は安いものでも1万円を超えるが、日本全国からオーダーメイドの注文が届く。

顧客の職業は多彩で大工はもちろん、華道家、庭師、能面師、仏師、人形職人、ふすま職人、桶職人、団扇職人と枚挙にいとまがない。鋸を必要とするニッチな需要を一通り押さえているといっても過言ではないだろう。

もちろん、皆が同じ鋸を使うわけではなく、粕谷さんは依頼に応じてさまざまな形の鋸を作っている。手のひらに乗るような軽くて小さな鋸から、丸太を切るのに使う刃渡りだけで40センチを超えるものまで、その種類は優に30を超えるという。

仏像用のノコギリ。木材を繊維の方向に沿って切断する「縦引き用」(下)と、繊維に対して直角に切断する「横引き用」(上)

「こういうものが欲しいという要望を聞いていたら、どんどん種類が増えていった」という粕谷さんの鋸を求める人は後を絶たず、たとえば今、注文しても数カ月待ちの状態だ。

それにしても、である。粕谷さんは、なぜ、どうやって、多様なニーズに応える技術力を身に着けることができたのか。そこには一般的な鋸とは異なる房州鋸の歴史が関係していた。

和船の建造に使われた鋸

房州鋸の歴史が始まるのは、今から450年以上前。上総の国 (今の千葉県の一部) を治めた里見家の鍛冶が、貿易などで使う和船 (日本固有の木造船) を作るための「船鋸 (ふなのこ) 」として生み出した。

和船の建造には、ケヤキや樫など堅くて丈夫な木材を用いる。切れ味と耐久性が求められた「船鋸」の素材には、日本刀とほぼ同じ鋼が用いられた。

里見家発祥の船鋸は独自の発展を遂げ、刃の反り具合や鋸目 (歯の部分) の立て方など一般的な船鋸とは形状も違うものになった。

徳川家康が全国を平定して戦がなくなると貿易が活発になり、江戸時代には和船の数が増えた。同時に、上総の里見家の鍛冶が作る船鋸の需要も増し、次第に今の千葉県南部の「安房 (あわ) =房州 (ぼうしゅう) 」の沿岸部にまで製造の技術が伝わった。

安房鴨川の海岸

刃渡りが45センチから60センチ弱と大きく、薄くしなやかで切れ味抜群、丈夫で長持ちする里見家の船鋸は思わぬことにも使われた。

江戸時代、財物が収められていた土蔵に侵入して盗み出す「土蔵破り」の犯人が捕まった時、里見家発祥の船鋸を使って土蔵の閂 (かんぬき) の鉄棒を切り落としていたことがわかったのである。

そこで幕府が一時期製造を禁止し、むしろこの船鋸は「閂の鉄棒すら切れる鋸」として名を馳せたのだった。

才能に溢れた初代

時計の針を少し進めよう。
1900年代の初頭、粕谷さんの祖父、雄吉さんが子どもの頃にはまだまだ和船の製造が盛んで、雄吉さんが生まれ育った千葉の安房鴨川にも船鋸製造の工房がいくつもあった。

雄吉さんは15歳で弟子入りし、やがて独立。「中屋雄造正直 (なかやゆうぞうまさなお) 」という屋号を掲げた。雄吉さんは、鋸職人としての才能に恵まれていた。

1942年に開催された日本鋸品質審査展覧會で、全国1位の栄誉に輝いているのだ。雄吉さんの孫で「中屋雄造正直」三代目の粕谷さんは「この賞でうちの鋸が有名になったんだよね」と振り返る。

日本鋸品質審査展覧會の賞状

里見家発祥の船鋸に改良を加え、「房州船鋸」と名付けたのは、雄吉さんだった。第二次世界大戦中も、腕利きの雄吉さんのもとには注文が殺到した。

日本は鉄が不足していたから、木造漁船をベースにした軍用の船を建造していた。そのために質の良い船鋸が必要だったのだ。さらに日本軍の戦線が拡大すると船大工も海外の各地に拠点を構えるようになり、大量の船鋸を輸出したそうだ。

「うちの鋸は、息は切れないけど木は切れると言ってね (笑) 。とにかく評判が良かったから、海外に行った大工のなかにはうちの鋸を持って行って使っている人も多かった。その大工がまた海外から注文したりして、韓国、台湾、中国、南洋諸島あたり、日本軍が侵攻したほとんどのところから注文が来たと聞いたよ」

戦後も漁船として使う木造船の需要は衰えず、「中屋雄造正直」は大盛況。1951年に生まれた粕谷さんが子どもの頃には、雄吉さん、粕谷さんの父で二代目の實さんのほかに3人の職人がフル稼働して、1ヵ月に100本を超える鋸を作っていたという。ちなみに、二代目の實さんも雄吉さんの才能を受け継ぎ、1995年の日本伝統的工芸品展で日本商工会議所会頭賞を受賞している。

工房に飾られている木造船の模型

10年かかる技術を2年で習得

粕谷さんが物心ついた時には家の前の工房に出入りしていて、中学生になると小遣いをもらって簡単な手伝いをするようになった。遊び盛りの高校時代は「手伝いがイヤで逃げ回っていた」そうだが、いずれ長男の自分が家業を継ぐということに疑問はなかった。

「昔の人間っていうのはさ、長男が家業を継がないといけないというのが常識だったから、そういうもんだとしか思ってなかった」

高校を卒業すると、粕谷さんは「中屋雄造正直」の三代目として鋸の一大生産地だった長岡市脇野町の工房に修行に出た。その工房では船鋸よりかなり薄い大工用の鋸を作っていて、実家よりも機械化が進んでいるなど勝手が違う部分もあったが、この時、粕谷さんは自分のポテンシャルに気づいた。

「実家で祖父や父の仕事を見ていたから、ひと通りの作業を憶えてたんだ。だから、親方に鋸の刃先を固くするための『焼入れ』という作業をやってみろと言われると、どれぐらい熱すればいいのか鋼の色でそのタイミングがわかった。3、4ヵ月経ったら、80%ぐらいのことができるようになりましたね。『門前の小僧習わぬ経を読む』みたいなもんです」

その年のお盆に帰省した粕谷さんの様子を見て、驚いたのは祖父と父だった。自ら「手伝おうか」と申し出て、慣れた様子で多くの仕事をこなしていたからだ。

「薄くてペラペラの大工用の鋸に比べると房州鋸は分厚くて大きい分、作りやすく感じました。だから、手伝ってみたらだいたいの仕事がそれなりにできたんですよ」

独特の形状をした房州鋸。上の鋸は完成品で、下の鋸はまだ未完成

当時も「中屋雄造正直」は大忙しで、仕事の一部を周囲の同業者に外注するほどだったから、雄吉さんと實さんにとって粕谷さんの急成長は嬉しい誤算だったに違いない。5年ぐらいは修行してこいと送り出したはずなのに、「そんなに仕事できるなら、もう帰ってこい」と言ったそうだ。しかし、粕谷さんは戻りたくなかった。

「新潟は日曜日が休日だったけど、実家はとにかく仕事が忙しすぎて、盆と正月以外に休みがないんだよ。正直、新潟にいたほうが良いと思ったよね (笑) 」

結局、数カ月で新潟の工房を辞めるわけにもいかず、粕谷さんは2年間、現地で修業を積んで1971年、20歳の時に実家に戻った。鋸職人としてひとり立ちするには10年かかると言われるそうだが、粕谷さんはわずか2年で必要な技術を身に着けていた。粕谷さんも雄吉さん、實さんの優秀な職人としての血をしっかりと受け継いでいたのだ。

三代で千葉県知事指定伝統的工芸品に認定されている

効率よりも質を追求

当時は高度成長期で、住宅建設ブーム。木造家屋の建築にも房州鋸が使用されるようになって、祖父、父、粕谷さんに3人の職人を加えた工房は目が回るような忙しさだった。

しかし、目先の効率化には手を出さなかった。房州鋸の製造は手作業の工程が多く、それだけに時間を要する。当時、ダイヤモンドを使った砥石が登場したため、やすりがけの作業を短縮しようと導入を検討したが、使ってみると微妙な違和感があった。

「ダイヤモンド砥石で鋸を擦ると目が細かすぎて、鋸が滑っちゃうんです。それに比べてやすりはザラザラしているから、木に対する鋸の食いつきがよくなる。実際に鋸を引いてみると全然違うんだよね。だから、ダイヤモンド砥石は粗仕上げの時だけ使うことにして、本仕上げは全て手作業でやすりがけです」

効率よりも質を優先する判断は、ほかにもあった。例えば、鋸の形にした鋼を薄くするために平面研磨する過程は、ほとんどの工房で機械化されている。機械化すれば、オペレーターひとりいればできる作業だ。しかし、粕谷家は「せん」という昔ながらの道具で一枚、一枚、鋸を削る作業を頑なに守った。

「平面研磨の機械は砥石を使って円を描くように研ぐので、目には見えないレベルだけど刃の表面がわずかに波打つんです。それで鋸を引いた時に引っ掛かりができる。でも、せんは手前から奥に押すように研いでいくので、刃の表面がまっすぐになる。だから、鋸を引いた時の滑りがまるで違うんですよ」

ダイヤモンド砥石を使うと滑りすぎる。砥石で研ぐと引っかかりすぎる。やすりだとほどよく食いつき、せんだとほどよく滑る。この微妙かつ繊細な違いへのこだわりが、絶妙な切れ味と使い心地を実現していた。

一本、一本、鋸の歯の部分を叩いて平らにする「刃ならし」の作業。こういった気の遠くなるような手作業の工程が20以上もある

なくなった需要

変化の波は立て続けに訪れた。

各国の岸から200海里 (およそ370キロ) の中に、外国の船は勝手に入って漁をしてはいけないという「200海里漁業水域」が国際ルールとして定められ、日本で適用されたのが1977年。これによって日本の遠洋漁業は大きな打撃を受けた。

さらに、繊維強化プラスチックという新しい素材でできた船が登場し、木造船を造る人も乗る人もいなくなってしまったのだ。後を追うように、マイホームも柱や梁を用いる在来工法からツーバイフォー住宅やプレハブ住宅に変わり、高価な鋸を必要としなくなった。

長らく粕谷家の仕事を支えていた船と家の工法が抜本的に変化したことで、最盛期には月に100本を優に超えていた注文が、80年代に入ると20本程度にまで落ち込んだ。房州船鋸は行き場を失ってしまったのだ。

これでまず、粕谷家の外注先となっていた近隣の鋸屋が次々と廃業した。粕谷家で働いていた職人も、別の仕事を探さざるをえなかった。休みなくがむしゃらに働いて、気づけば40歳を超えていた三代目は、途方に暮れた。

「それまでの蓄えがあるから食べていけないわけじゃなかったし、この仕事しかやってこなかったから、やめるという発想はなかった。でもその時はとにかく仕事がなかったから、ブラブラしていましたね」

大繁盛していた過去は「今となってはまるきり嘘みたい」

かつての賑わいが嘘のようにひっそりとした工房で、粕谷さんは考えた。これからどうしよう‥‥。

転機をもたらしたのは、自ら踏み出した一歩だった。仕事を始めた時からずっと、ひっきりなしに届く注文に追われていたが、その時代は終わった。このままではじり貧だ。注文が来ないなら取りに行くしかない。

窮地を救った新たな出会い

その頃ちょうど、名のあるデパートで伝統工芸品に焦点を当てた催しが開かれるようになっていた。ある程度の実績を持つ職人しか出展することができない催しで、粕谷家はその一員として名を連ねることができた。

修理も受け付けると掲げて出展してみると、想像以上に鋸に関心を示す人たちがいた。しかも、それまでなんのつながりもなかったジャンルの人たちが多かった。この出会いが、窮地を脱するきっかけとなった。

たとえば、ある華道の講師は工作に使うような鋸を持ってきて、修理してほしいと依頼してきた。そこで粕谷さんは、その鋸ではうまく枝を切ることができないでしょうと説明し、「ちょうどいい鋸を作ってあげますよ」と生木がきれいに切れる花木用の鋸を考案した。するとそれが華道の講師の間で評判となり、次々と依頼が舞い込んだ。

ある時には、雅楽で使う篠笛の製作用の鋸が欲しいと相談を受けた。粕谷さんは「雅楽だったら漆を塗ったところから切るんじゃないか」と予想し、そのために目が細かい鋸を作って納品したところ、「すごく良いからまた作って欲しい」と依頼を受けた。

弟子を抱える職業の人たちは、縦と横に強いつながりがある。デパートに出展するようになってから、粕谷さんが作る痒い所に手が届くような鋸の噂を聞き付けた各界の人がこぞって注文をしてくるようになった。

そのタイミングで、粕谷さんは房州船鋸という名を「房州鋸」に変えた。粕谷さんが作る鋸はもはや、船用ではなかったからだ。間もなく、粕谷さんがブラブラする時間はなくなった。

木目込み人形の製作に使う鋸の設計図と実際の鋸

「もし使えなかったら返してくれればいい」

粕谷さんはお客さんから「こういうものを、こういう風に切りたい」という依頼を受けると、あとはほとんど相談せず、頭のなかでイメージを膨らませて鋸を作る。

どれもかつて船大工が使っていた大きな房州鋸とは似ても似つかないような形や大きさになったが、長年培ってきた、よく切れて長持ちする精巧な鋸を作る昔ながらの技術がベースになっていると振り返る。

「すべては応用ですよ。船鋸といってもいくつか種類があって、たとえば局面を切り出すための廻し引き鋸の技術は能面用の鋸に使えました。房州鋸を小さくしたり、薄くすることで、いろいろな鋸を作ることができる」

それにしても、篠笛や能面などほとんど知識がないようなものに使う鋸を作るのは、誰にでもできることではないだろう。思わず、「才能ですかね?」と尋ねると、粕谷さんは苦笑しながら首を横に振った。

「難しい注文がくると大変だなと思うけど、ちょっとやってみようかっていう気持ちにはなるよね。今なんて、一寸 (約3センチ) の間に30本の目 (歯) を入れたりするけど、そうやって細かい作業をコツコツやるのは好きだったかもしれない。才能っていうより、この仕事が自分に合ってたのかもね」

確かに、粕谷さんにとって鋸職人は天職だったのかもしれない。粕谷さんは、どんな顧客に対しても、「もし使えなかったら返してくれればいい」と伝えて納品している。しかし、これまで鋸が送り返されてきたことはない。ただの一度も。

<取材協力>
中屋雄造商店
千葉県鴨川市東江見2-2
0470-96-0349

文・写真:川内イオ

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