さんち 〜工芸と探訪〜

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産地の工芸品

奈良県

飛鳥・橿原・広陵

かいぼたん 貝ボタン

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概要

 貝ボタンとは貝殻を原料としてつくられたボタンのこと。主に高瀬貝、白蝶貝、黒蝶貝などが原貝として使われる。奈良県磯城郡川西町が貝ボタン製造の全国トップシェアを誇る。
 川西町は奈良盆地のほぼ中央に位置し、町内をゆるやかに流れる6つの川が1カ所に集結して大和川に注ぎ込む水辺の郷。かつては大阪からの舟運の集散地として賑いを見せていた。この事が川西町における貝ボタンのルーツである。

南太平洋の美しい海から運ばれてきた原貝をくりぬいて使用。こちらは高瀬貝。

南太平洋の美しい海から運ばれてきた原貝をくりぬいて使用。こちらは高瀬貝。

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多くの工程が機械化されていると言えど、人の手と目は今でも欠かせない。

多くの工程が機械化されていると言えど、人の手と目は今でも欠かせない。

こちらはボタンを数える道具。古くから使われてきた道具は今も健在。

こちらはボタンを数える道具。古くから使われてきた道具は今も健在。

写真:下村亮人

歴史

 貝ボタン産業は明治20年頃ドイツ人の技術指導により兵庫県神戸市に初めて伝わり、その後明治30年頃には大阪の河内地方へ。奈良県に本格的に伝わったのは明治38年頃とされる。奈良県では江戸時代から農家で綿加工業が盛んであったが、この頃は木綿織物や養蚕業といった産業が衰退の一途を辿っていたため、農閑期の副業として貝ボタン製造が家内工業的に取り入れられるようになった。神戸・大阪の経済交流と大阪・奈良間の舟運で結ぶ物流によって情報交換が行われてきたことが予想される。
 これらを背景として明治39年に始まった川西町の貝ボタン産業は、大正初期にかけて徐々に成長。当時は洋服の普及がまだ十分ではなかったため、貝ボタンは国内需要が少なく多くの製品は国外に輸出されていた。大正3年に第一次世界大戦が始まると一時的に川西町の貝ボタン産業にも打撃があったが、貿易ルートが安定すると輸出も回復、大戦中でありながら貝ボタン産業は急成長を遂げた。
 大正3年には業者数50戸・職工数349名となり、大正中期の川西町の経済の中で非常に重要な位置を占めていたことがわかる。川西町では「貝ボタン熱に浮かされて小学児童の出席率が低下した」といった貝ボタンブームに。いかに川西町が貝ボタン製造に沸いていたかがよくわかる。
 昭和に入ってからも川西町の貝ボタン産業は繁栄を続けたが、昭和40年頃から安価で大量生産が可能な合成樹脂製品が本格的に流通、貝ボタンの存在をも凌駕するほどの勢いに。その後「バブルの崩壊」で景気低迷が進む中、卸売業者や消費者は質より量を好み、ロスの少ない合成樹脂製品へとさらにシフト。
 長引く不景気の影響もあり、川西町の貝ボタン産業は受注減少による売上低下、後継者不足などが大きな要因となり、廃業する業者が後を絶たない状況が続いた。最盛期には川西町内の過半数以上の世帯が貝ボタンに携わっていたが、現在では川西町全体で10軒程度となっている。厳しい状況下でも各製造事業者は、昔ながらの技法継続や新たな商品・技術開発に積極的に取り組み顧客ニーズへの対応を心掛け、近年では貝ボタンの魅力も再認識されつつある。

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